パッドマン
パッドマンというインド映画を見た。
インド人女性が使えるように安価な国産生理用ナプキンを作った人の話。
2001年、当時のインドでの生理用ナプキン使用率は12%
女性の多くは生理用ナプキンの代わりに古い布切れや草(?)や灰(!?)を使うんだとか。
それが原因で病気になることもあるらしい。
結婚してから妻が不衛生そうな布切れを使っていることに気がついた主人公ラクシュミは生理用ナプキンを買ってプレゼントするが、妻に高価すぎるから返してきてと拒否られてしまう。
だったら安価に自分で作ろうと、周りに気狂い扱いされながら生理用ナプキン作りに邁進したインド人男性の実話をもとにしたお話。
いやー、インドの生理タブー感がすごい。
生理は穢れだからベランダの生理小屋にいなきゃいけないそうだ。
血が服に着こうものなら、家族の女性にすら知られないようにこっそり洗濯をしなくてはならない。そりゃあ大変だ。
「自分で入れられないから」という理由で旦那にタンポン入れさせてた私はインドで生きてけないな。
確かにインドに旅行へ行った時、生理だという理由で寺院に入れなかったことがある。
まあ地元文化を尊重しようと思って、特に抗議しなかったけど。
あと、生理小屋の存在も知ってはいた。
表向きは「穢れ」ということにして、その実態は生理中の女性を休ませる目的があるのかなと思ってたけど。
正直私は生理が全然辛くない人なので、普通に日常生活が送れるけど、私の母なんかは毎月寝込んでたし、私の周りの人だって相当辛そう。あんまりにも辛い時はいきみ逃しするそうだ。
だから堂々と休めるのなら、それはそれでいいのでは?文化の為せる技、と思っていたのだけど、それで平気な人まで日常生活ストップしてしまうのは困ったものなんだな。その期間学校とか行けないと勉強も遅れがちになるらしい。
私としては、辛い人だけ生理小屋で堂々と休めて、かつ学校に行けなくても家で勉強できればいいのに。と思うけど…。選択肢があればいいのにと思う。で、生理用品があるからそれつけて学校行かないとダメ、とかでもなく、自分で選択の自由と責任を取れるようになれればいいのに。
そんな選択肢を提供できるほど社会がオープンじゃないってことなのね。
主人公ラクシュミ。
非常にインド人らしい。こういう人いそう。
どういうことかというと、なんか自分の愛と善を突きつけてくることころがインド人っぽい(偏見)。
インドを含む色々な国にいたこともあるし、大学時代は生徒教員の半数が外国籍だったので、なんとなくインド人のキャラクターイメージ(偏見?)があるのだけど…とりあえず、「日本人の女の子が軽い」というくらい有名なのは「インド人男性はしつこい」というのだった。
こっちの気持ちや考えなどお構いなしなのだ。
「大っ嫌い。2度と近寄らないで。」くらいは言わないと伝わらない。
以前インド人男性から連絡が来ていたことがあるけど、「おはよう」のハートマーク画像から始まり、1日70〜80通くらいのメッセージが来る。LINE、FB、SMS、あらゆるメッセンジャーアプリから連絡が来る。もちろん彼氏ではないし、返事もしてない。
「怖いからたくさんメッセージ送るのやめて」と言ったら1日30通くらいまで減った。うーん。
もちろん思慮深いインド人や妙に都会的リベラルインド人がいるのも知っている(そういう友達がいる)
だけど、いわゆる地方の、大学を出ていないような地元感あふれるインド人に関しては、より典型的インド人キャラクターが濃ゆく出ているように見える。
非常に愛すべきキャラクターだ。こっちの都合などぶっ飛ばして、ありったけの好意を示してくれる。
濃ゆい。
嫌な感じも、狡猾さも好意も主観的正義も下心も何もかも全面に押し出してくる。
インド大好きな人はこういう典型的インド人キャラクターを愛してやまないからではなかろうか。
だから、主人公ラクシュミのような人、いそうだな…と思うのである。
奥さんはさぞかし迷惑だったことでしょう。(私はなんでパリーにしないのよ!って思ったけど)
でもこれが彼らの愛すべき特徴だと思う。
ラクシュミの国連スピーチには胸打たれる。
確かに下手な英語なんだけど、伝わってくるもにがある。
うんうん、彼の言う通り、強い男は国を強くしないのだ。宮崎駿か。(大体彼の作品に出てくる女性陣は強くて元気だ)
いい映画だった。
最後はちょっとモヤっとしたけど、まあインドだもんな。これでいいんだと思う。パリーの気持ちはわかる。あの可愛い笑顔は奪ってはいけない。
ちなみに「パリーとちょっといい感じになる」というのはフィクションらしい。
私は両親と一緒に見たのだけど、父はラクシュミの国連スピーチに釘付けだった。(正確さを求める我が父には、あんな下手くそで心打つ英語スピーチは新鮮だったことでしょう)
女性は是非男性と一緒に見てほしいなと思う。そして、是非生理のあれこれについて語り合ってほしいな。
ヤバい経済学〜悪ガキ教授が世の裏側を探索する
「経済学は答えを出すための道具は素晴らしくよくそろった学問だが、面白い質問が深刻に不足している。」
銃とプール、危ないにはどっち?
教師は教え子の成績を改ざんする?
力士の八百長やドラッグの販売組織の経営体制を分析してみたり、差別意識をクイズ番組から発見したりと、何やら楽しそうな話題を経済学者が独自の視点で論じる。
よくもまあこんなにデータが集められたものだと思う。
ちきりん好きな人はこの人のことも好きだと思う。私は好きです。
社会のちょっとした(ある人にとっては重大な)疑問の答えをデータで発見できるというのはなんとも痛快。
こちらの方が経済学者というだけあって、なかなか手に入りづらそうなデータを駆使している感がある。
発見内容が面白いのはちきりんかもしれないけど。
とはいえ、なによりも面白いのは問いそのものかな。いろいろとあーだこーだ言いたくなる。「そうか、そこから答えを見つけるのね」と言いたくなる手腕でデータを読み解く過程も面白い。ミステリーは現実社会が舞台の方が面白いのだ。
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私が「LA LA LAND」のラストを好きな理由
私の大好きな映画のひとつである「LA LA LAND」
1回目は映画館で、2回目はさっきAmazon primeで観た。
私はこれを観ると、もうボロボロ泣いちゃう。
女優を目指すヒロインとジャズのお店を持つことを夢見るピアニストがそれぞれ夢を追いかけるお話なんだけど、結末から言うと2人は結ばれない。
でも私はこのラストが大好きだ。
過去に何人かの人と付き合った経験のある人なら共感できるところがあるのではないだろうか。
「結婚はしなかったけれど、その人がいなければ、今の私はなかった」って人。
「最終的には別れてしまったけど、自分の人生を作るのに必要不可欠だった」って人。
もっと言えば「別れてしまったけど、あの人がいたからこそ夢を叶えることができた」って人。
決していい思い出ばかりじゃないけど、振り返ってみた時に「あの存在は必要だったなー」と思う。
ロマンティックに言えば、運命の人。
でも私は、必ずしも「運命の人」と死ぬまで付き添う必要はないと思ってる。
別れたってことは、もうお互いの存在が必要なくなったってことでしょう。
人生で、運命の2人が、お互い必要な時に、必要な関わりができた。それだけで十分ロマンティックだと思う。
この映画のラストについて、よく見かけるのが「夢を掴む代わりに恋を諦めた」という解釈。
個人的な意見として、2人はどちらかが夢を諦めて一緒にいても、別れてたと思う。
というか、「遠距離になると別れる」「仕事が忙しくなって連絡が取れなくなったり、会えなくなると別れる」というのが全く理解できないので。
遠距離だろうが、夢に邁進してようが、連絡を取らなかろうが、付き合いが続く時は続く。
同棲して、毎日一緒にいて、たくさん話してようが、夢を諦めようが、別れる時は別れる。
まあ色々きっかけはあるだろうけど、夢云々じゃなくて最終的には単にご縁がなかっただけかと。(身も蓋もない?)
でもいいじゃん!
お互いの人生の夢を叶える為に「運命の人」と必要な時に出会って、とても重要な役割を果たしたんだから!こんな素敵なことってある!?
そりゃ切なくて、観ていたって泣いちゃうけど。
でもまあ別れたってことは、もうお互いの役目は終わってるんだよね。
セブだってミアがいたから夢を叶えられたんだろうし。描かれてないだけで、セブにも新しい彼女がいたかもしれない。
でも現パートナーには内緒の美しい思い出として、こっそり宝石箱にでも詰めておきたいよね。
決して上書き保存はできない存在。だから現パートナーは全くの別物として大事にしたらいいじゃない。
この映画を観ると、今の自分を作りあげた人を思い出して、その出会いに感謝したくなる。その人と出会った自分の人生を愛おしく思う。だから私はこのラストが好き。
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やわらかな遺伝子
うーん、おもしろかった。
と言いつつ、読み切るのにすんごい時間かかっちゃったんだけど。
「生まれか育ちか」の問いに対して、膨大な研究データを使って、「生まれは育ちを通して表れる」という考えを示したノンフィクション。
よく教育系の本を読んでいると、遺伝と環境が人の人格や能力に与える影響は半々だと書かれていて、なんとなく「ふーん」だなんて思ってたんだけど、どういう意味かあまり考えてなかった。
この本によると、遺伝子の影響というのは確実にあるものの、環境によって遺伝子が反応するんだとか。
そして、ある一定以上の愛情を注いで育てれば、ものすごく愛情を注いで育てても能力的に対して変わらないという。なんとまあ。
「生まれか育ちか」論争の歴史やそれに付随する哲学的問題など、単純に物語として楽しい。
なんとなく感じていたことで、この本でも言及されていたこととしては、「育ち」の平等化によって、「生まれ(遺伝的要素)」の不平等化が起こるということ。例えば、どんな境遇の人でも学校へ行けるようになったら、もともと頭のいい人の優秀さが明確になるってこと。そして逆に遺伝的に勉強が得意じゃ無い人はあからさまに落ちこぼれるってこと。まあそうだよね。
あとおもしろいと思ったのは、生まれた時点では小さな差異だったことが、自分自身で環境を考慮しながら大きな差異にしていくということ。例えば、双子の片方が社交的だったら、もう片方はあえて内向的な立ち位置をとるようになる等。
これは経験ある。私は双子じゃ無いけど、小さい時は兄が優等生の「いい子ちゃん」だったから、私は「いい子ちゃん」じゃなくていいと思って好き放題やってた。
だけど、兄が思春期になって荒れだしたあたりから、「あー私がいい子の役をやんなきゃ」って落ちこぼれ→優等生に変貌したんだった。なんとなく今もその役を引きずってる。いい子ちゃん的素質も好き放題の素質も持ってたんだと思う。
さて、本書を読み終えて思うのは、周りの大人が本当にできることっていうのは、子どもの可能性を開花させる環境を用意してあげることなのかなと思う。
あとは、子どもの素質を見極めること。
でも、子どもの頃っていうのは、大人に比べて限られた経験しかしてないから、周りの大人の影響が如実に現れる。
(本当に自分らしく生きられるのは、十分な人生経験をして、躾ける親や先生がいなくなってから。)
何が大人の影響なのか、その子の素質なのかを見極めるのは難しいと思う。
だから、多様な経験をさせて、どの経験や環境がその子の遺伝子を活性化させるのか見つけるのと、もう1つは子どもに多くの「アウトプット」をさせることで、その子も好みの方向性を探すことだと思う。
絵、文章、言葉、スポーツ、作品、疑問や感想。
同じアウトプットにしても「個性、方向性、好み」ってのが出てくる。
それを観察すること。観察しやすい状況を用意すること。
「個性を活かす」ってそういうことなのかしらーと考えさせられた1冊でした。
- 作者: マット・リドレー,中村桂子,斉藤隆央
- 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
- 発売日: 2004/04/28
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謝るなら、いつでもおいで
2004年、小6の女の子がカッターで同級生を殺した。
通称「佐世保小6女児同級生殺害事件」
本書は被害者の父親の部下(新聞記者)による事件のルポ。
この事件についてはかなり騒がれていたから大まかな内容は知っていたものの、読み進めていくうちに怖くなってしまった。
何が怖いって、神戸児童連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗の事件)とか佐世保女子高生殺害事件みたいに他の未成年の猟奇的犯罪とは違って、「すべて普通」だから怖い。
ものすごく深刻なトラブルがあったわけでもなく、加害者少女がサイコパスだったわけでもなく、加害者が特異な家庭環境にあったわけでもなく…
被害者と加害者の間にトラブルはあったものの、それくらいの時期にはそんなこともあるだろうな…という程度。
加害者の少女がちょっと中二病拗らせた感はあるけど、これもまあこの時期にこういう子もいるかな…っていう程度に感じる。発達障害だったと言うけれども、「軽度」というのはどこにでもいるレベルだ。
加害者家庭で虐待があったわけでも、厳しすぎる躾があったわけでもない。共働き家庭ならこんなもんかな…ってレベル。
どの要素を取ったってありふれたレベル。
だから怖い。
これといった原因が謎に包まれたままで、加害者側の家族にしろ、被害者側の家族にしろ、学校にしろ、大して有用な防ぎ方が思いつかない。
「なぜ」が突き詰められない、事件の核心が未だにわからず、被害者家族も加害者家族も苦悩する。
加害者少女は謝罪をしていないという。
本書の描写からも罪の意識が感じられず…これが全く知らない子や大人だったら躊躇なく憎めただろうに、加害者少女は心身ともに幼すぎ、「なぜ」もわからず、被害者少女は戻らず、気持ちの行き場がない。
「彼女を憎いとは一度も思わなかった、怒りをぶつけるべき相手が違う気がした」という被害者の兄の言葉。
加害者少女の謝罪と社会復帰が、おそらく被害者・加害家族を前に進ませる唯一の希望なのではないかと思う。
贖罪・更生の意味について考えさせられる一冊。
深い河
インドにて再読。
今これ書いてるのもインドだ。
なんでインドにこの本を持って行ったかというと、インドにまつわる話だからだ。
もうちょっと詳しくいうとそれぞれの背景や思い、目的を持ってインドツアーに参加する老若男女のお話。
亡くなった妻の生まれ変わりを探しに、大学時代の知り合いを探しに、写真を撮るために、亡くなった戦友を弔うために、自分を救ってくれた鳥に恩返しをするために、インドへ向かう。
著者はリヨン大学にてキリスト教を学んでいたらしい。そして登場人物のひとり、大津は神父を目指す「キリスト教信者」。でも考えは非常に東洋的。何に神を見出すのか。善悪割り切れない混沌とした世界観がまさに東洋的だし、それを象徴する最たるものがガンジス川なのだと思う。哀しみも苦しみも、不浄さも身分も年齢も全てを受け入れ、流れていくガンジス川。私も今ガンジス川のある街に滞在してこの感想を書いているが、この街のガンジス川は上流の為、山・霧に囲まれ、流れも早く、きっと、腰まで入ったら普通に流されて死ぬ。バラナシ地点のガンジス川よりよっぽど綺麗だとは思うが、溺れそうだから、私は足首すら入れられない。全てを受け入れる河というよりは、ちょっと厳しめで、容易には近寄りがたい神聖さがある。それが流れに流れて、下流の方のバラナシになると、ガンジス川はきっともっと俗っぽくなるんだろうと思う。でも、あまりにも俗っぽくて人間らしく、生々しい欲や哀しみを膨大に受け入れるのがバラナシのガンジス川のイメージ。そして、それら全て受け入れるからこそ、懐のとんでもなく深い聖なる河なんだろう。まさに無条件の愛、母なるガンジス川。
バラナシのガンジス川
上流のガンジス川。命がけの沐浴。すごく寒くて水も冷たい。
みんないい話なんだけど、個人的に一番印象的なのは愛を模索する美津子の話。「え、これって私の話?」ってくらい彼女の思考回路と半生が似てる…大津を痛ぶるのも、愛の真似事をするのも、結婚生活も、彼女の気持ちが痛いほどわかりすぎて、読むのが苦しかった…えぐってくれるわ、この本。痛い。
私にとっては、この本は読んで決して晴れやかな気持ちになるものではないんだけど、読んでいると、目を背けていたものに対して、「ほら、ちゃんと見なきゃダメだよ!」って言われている気分になる。きっとまたインドに来るようなことがあれば、ズーンとなりながらまた読み返すんだろうな…たぶん。
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/06/13
- メディア: 文庫
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保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」
成果を出したい思いが強く、真面目で努力家でいわゆる仕事ができる人。そんな人こそ苦手なのが子育てだと思う。いかんせん思い通りにならない。むしろ「成果を出したい(思い通りにしたい)」と思うと見事に悪循環してくれるのが子どもだと思う。
悪循環の1つに必ずと言っていいほど組み込まれるのは、「叱る」という行動。これは真面目なお母さん達もよくわかっていて、怖い顔で叱った後に自己嫌悪するお母さんもたくさんいることでしょう。そういう時は、こうしたらいいよーと言ってくれるのが本書。
要は育児書なんだけど、別に小手先のテクニックで子どもを転がそうとしないところが、すごく好感が持てる。往々ににして、すぐ使えるものはすぐ使えなくなったりするものだ。本書は子どもの困った姿という形で現れる問題は表面上の問題で、根幹にはこんなことがあるんだよーと教えてくれる。むしろ問題のもとは親の生育歴だったりもする。ちゃんと親にも子どもに向き合っている感がある。
表面だけで転がそうとしない分、読み手にちゃんとその背景や子どもに慢性的に不足しているもの等を考える視点をくれるというのが、本書のいいところだと思う。そして、親が悪い!と批判するでもなく、ちゃんと冷静に可能そうな範囲でアドバイスをくれるのが良い。世の中には、「親たるもの!こうでなくちゃ!」という育児書があったかと思えば、「親は適当で良いのよー」という本もあり、自分のとりたいスタンスの本を選びがちだと思うけど、この本はどちらに対しても行き過ぎにならないように、時と場合によっては叱る叱らないを使い分けて(叱り方も書いてある)子育てするよう述べていて、バランスのいい本だと思う。
子どもができた際はこんな風に子育てしたいな。